無明  (10月18日のおはなし)

知り合いのご婦人が、家族が重い病になり、生活が一転し、毎日介護や経済的負担からくる精神的な負担で辛い日々が続いている様子。

最近そのお方は、ある信仰宗教に足繁く通っているとのことであります。それはなぜなのか。ひとえに家族の病気が治ってほしいからであります。そしてそのことをお祈りし、県外の本部道場まで足を運ぶこともあるそうなのです。

 その団体の教祖様がいうそうです。病気になったのは、あなたや家族の信仰が足りないせいです。と。その方は最近増々その教団へ足を運んであるようです。

 そんなとき私は真宗の僧侶として、その方にどう接すればいいのか、今も考えています。病気を治したい、というのは切実な願いです。

しかし問題は、病気が信仰していないせいである。と決めつけてしまうことです。だからあらためて信仰すれば、病気が治る、という発想です。なぜ病気になることが、信仰していないという原因になるのでしょうか。そうして信仰することで病気が治る。という発想も怪しいものです。問題は病気を悪いもので、排除すべきものとみていることです。

本当に信仰していたら病気にならないなら、教祖は死なないのでしょうか。そんなことありえません。みんな死ぬのです。

信仰で病気が治る、と信じることこそ信仰ではなく迷いです。

本来の信仰とは、拝むことと病気が治ることは関係のないことであると、気づくことこそが信仰する人です。

 そんなこんなと考えているうちに写真の言葉が浮かんできました。

 なんまんだぶつ。