損しないコツ

  得しようとしないことです

 

人生が苦楽損得の関心におおわれたときに、楽を求め得を求める人生になる。(中略)われわれは楽というものを求めるけれども、人間の考えたものは本当の楽ではない。楽があると思う心にだまされて、楽を求めて苦しんでいる。(中略)日常生活で最大の欠陥は、あらゆることに検討や吟味が欠けている。(中略)見れば見たごとく、まちがいなく存在し、聞けば聞いたごとく、まちがいない、考えれば考えたことが正確であると思い込んでいるが、はたしてどうだろうか。(中略)われわれはよくこれが現実だという。しかし、われわれの言っている現実は、考えた現実であって本当の現実ではない。もし本当の現実なら、人間を悩ましたり縛ったりしないはずである。人間は本当の現実を見出したとき、はじめてそこに安心と解放が与えられる。これを明らかにするのが仏道である。

 

 








      形あるものは

       皆なくなる

 

 とても簡単な言葉ですが、実はなかなかこれが飲み込めません。

なぜかというと自分のことだからです。形あるものとは、自分のことです。その自分がなくなるというのですから、大変なことです。

  「 今までは人が死ぬと思うたが 

    わしが死ぬとは こいつはたまらん」

 

 こんなうたをどこかで聞いたことがあります。(たしか一休禅師作でしたか。)死にたくない恐れは、自分がなくなることの恐れでしょう。その恐れを消すことが大事なのではありません。恐れがあろうがなかろうが、死ぬのですから。

 しかし今は生きている。なぜ生きているのか。いずれなくなるこのいのちが、今生きているその意味はいったい何なのか。

 その問いをこそ大切にして、お念仏にたずねていきたいと思います。

 なんまんだぶつ。

 

 




 

 

 

 

 

 

仏の願いは そのまま

私の願いは わがまま


 仏の願いは そのまま とは、そのままを受け取れよ。という願いです。

 私はなにごとにおいても、自分中心の眼でものごとをみて、自分の都合のいいことを願います。なにごとにおいても自分の都合で受け取ります。

自分の都合で受け取ることから、真実を見失っているのでしょう。

しかしだからといって私がそのままを受け取ることはできないことなのです。

できないからこそ仏はそのままを受け取らせよう、と願われているのです。

少し難しくなりましたが、そのままを受け取る、ありのままになる、というのは

自分がありままに生きる、ということではなく、ありのままを生きるということであります。





 









選ばず嫌わず見捨てず


 


 

 

 無いものねだりでなく

有るものさがし

 Eテレビのハートネットテレビで、お笑いタレントの桜金蔵氏が出演されていました

彼はある日突然脳梗塞に襲われ、緊急手術をし一命をとりとめたが

重い後遺症が残り、今懸命のリハビリ生活を送っているとのこと。

その彼がこの病気になった今気づかされたことがたくさんあり、

そのうちの一つがこの言葉であるといわれました。
簡単な言葉のようですが、なかなか簡単ではないように思えてなりません。

一見美しい言葉のようですが、そんな軽い言葉ではないように思うのです。

ひねくれ者の私ですからなおさらです。

 華やかな芸能生活から地獄に突き落とされたようだったというようなこともいわれました。
 その地獄の中で感じた言葉なのでしょう。深い言葉です。
「あるもの」ってなんだろう。また「今は懸命に生きるしかない。」ともいわれました。
 憶念させられています。

 

 

 

   行きづまりとは

   自分の思いの行きづまり

 

 

 行きづまりはどんなことろでもある。どんな状況にもある。

もうだめだ、と思うこと、絶望というかもしれない。

しかしそれはこの自分の思いが行きづまっているだけなのであって、事実は粛々と進んでいる。詰まってはいない。自分の思いどうりにならなかっただけである。

 自分の思いだけを固く信じて生きていると、必ず行きづまる。なぜなら自分の思いと事実は違うから。思いと事実が違うと行きづまる、という。

しかし事実に生きると行きづまりはない。

しかし私は思いをあてにして生きている。思いをあてにしている私に仏は呼びかける。「思いはあてにならない」と。

 行きづまりは辛く苦しい。だからこそこの言葉が強く響くのです。

 

 

   あてにするから  

    はずれるんだよ 

 

 この言葉は相田みつを師のいわれたことばだそうです。

ある人が家にある日めくりカレンダーがめくってないことに気がつき、これは主人の仕事なのに、なんで私がめくらないといけないの、と腹を立ててめくっていたら、その日の言葉がこの言葉だったそうです。

 この言葉に出遇い、腹立たしい気持だったのに、思わず笑ってしまったそうです。

 

 

     ゆっくり ゆっくり

 

 なにかと忙しい今日この頃です。相変わらずスピーディな世の中です。まるで早いことがいいように。早いことが優れているかのように。

 テレビの料理番組を観ていても、先生が「いかに簡単に早くて美味しくできるか」を強調していました。食べ歩きの番組でも「注文してからどれだけ客を待たせずに早くでてくるか」 タイムを計ってる番組もありました。

 料理だけではありません。新幹線リニア、高速道路、会話も、日常生活にそのものが早くなりました。早くて正確に。迅速に、がモットーであるかのように。

 しかしこの早いが気になります。そんなに早くないといけないのか。

なにをそんなに急いでいるのか。早いが当たり前の時代になると、無意識に早くしないといけないような、焦りみたいな気持ちがでてきます。

 なにがどうとはよくわからないのに、とにかくなにごとにも早いのを求めます。その結果逆に待てなくなっているのではないかと思います。

 なぜ急がなければいけないのか。

 そろそろこの「はやい」、という囚われを見直してみてはいかがでしょうか。それのよって待つ」 ことの大切さにも気づかされるのではないかと思います。 

 

 

自分に満足できないから

相手のしあわせが耐えられない  仲野良俊

 人間は他と比較して幸せや不幸を感じている。

あの人より幸せだ、あの人より不幸だといって

周りに振り回されている。

それは自分に自信がないからである。

自分が満足できれば、それでよいはずである。

ところが仲野良俊先生は、「自分に満足できない時、今度は他人の幸せに耐えられない」と言われる。 

ある人が、隣が立派な家を新築したら途端に、自分の家が惨めに見え、

羨ましくて隣の悪口を言っていたという。

またある人は、知人の子供が一流大学に入学したのを聞き、

情けなくて知人に会うのが嫌になり、知人の悪口を言っていたという。

満足の裏には不足がある。

人間はどれだけ欲望が満たされれば満足できるのか。

 今我々は、知足ということが大事である。

足るを知ることである。

私は私、あなたはあなた、それでよしという世界である。

 (同朋大大学院教授 中村薫師)

(2014年3月1日 中日新聞「今週のことば」より)

 

 

 別れの数だけ出会いがあります。

 出会ったぶんだけ別れがあります。

 そんなの当たり前のこと。と時には思います。

しかしどうしても割り切れない別れもあるのでしょう。納得できない別れ。身を切り裂かれるような辛い別れ。夢なら覚めてほしい苦しい別れ。

 よく考えてみますと、生きていくぶんだけ別れもあるのです。

 「こんにちは」は、必ず「さようなら」になる。

今出会っているすべてのものと、いずれ必ず別れる時がくる。

この言葉は、私に教えてくれています。

 さらにいうとこの言葉によって、今の出会いをあらためて考えます。

いずれ別れるべき中にあって、今生きている、今出会っている。

すべてが愛しく思えてきませんか。

 

「問いの中に答えあり

仏法とはひと言でいえば「人生の問いであります」

この言葉は、真宗を学びはじめた私に、私の師がおっしゃられたお言葉です。

この言葉を聞いたときなんのことだかさっぱりわかりませんでしたが、

とても心に響きました。

その後真宗の学びの中でその言葉がいかに重要であるかを実感しています。

人間はこうすればああなる、ああなるはずだという、

発展的な自分の思いどおりになることを思い描いています。

しかし、こうすればああなるというのは、自分の妄想であります。

たとえばいつまでも健康でありたいと思い、

いくら体に気をくばっていても、病気になる時はなります。

なぜ病気になってしまったのだろうと考えた時に、

自分の体と思っていたものは

実は自分の思いどおりにならない体だったのだと

病気を縁として気づかせていただくのです。

その気づかせていただくことにより、

一日一日を生きさせていただくことの大切さ、

人間として生まれさせていただいた不可思議さに

気づかせていただけるのではないでしょうか。

真宗ではなぜこうなったのかという「問い」が大切であり、

答えは誰かに教えてもらうのではなく、

仏法を聞かせて頂く中で、

私が日々の生活の中で気づかされていくことだと思っています。

 

「思い通りにならない事が順調である」

法友のKさんからお手紙をいただきました。

Kさんのお手紙から掲示板のことばを書かせて頂きました。

以下はKさんからのお手紙からです。 

今年も浄福寺さんの永代経と、報恩講さんの御縁をいただくことができました。

檀家さんの心のこもったお斉、お汁講、それと法話。この御縁は、

わたしにとって「最高のおもてなし」を長い間受けていたことを、

今頃やっと、知らされることとなりました。

それは、そのころ、テレビでJRが、豪華な九州一周旅行の宣伝を盛んにしていて、

その鉄道の旅は、贅をつくし「最高のおもてなし」をスローガンに、

熱心に、集客に取り組む人たちの姿が、放映されていました。

そのようなぜいたくさとは全く異質の、比べられない「最高のおもてなし」を、

私は何時も、旅に出なくても居ながらにして、お寺から受けていたことに、

あらためて気づかされました。

日々の暮らしの中で、年々、私の思い通りにならないことばかりが

次々と起こってきます。

そんな私に向かって師は、さらりと

「その、ならないことこそが、順調な毎日なのですよ」と・・・・

それを聞かせていただいてからは、

私は毎日「思いどおりにしたい」自分に出遇い、

れがことごとく「思い通りにならない」自分に出遇って、

「それこそが順調な証拠なのですよ」と

師が私に語りかけてくださる生活を送らせてもらっています。

今ではこの生き方が、私には、思わず「うふっ」と、笑ってしまえるほどの、

不思議な至福の一瞬となっています。

「ありがたいは有り難いと書く」

普段何気なく使っている「ありがたい」という言葉、実は「有り難い」と書くのですね。漢字で書くとその意味の深さに今さらながらに教えられます。「あたりまえの反対は有り難い」と聞いたことがあります。

 反対というよりもっと踏み込んでいうなら、あたりまえなんてない、みんな有り難い。とはいえないでしょうか。

「次は自分の番だ」

今月寺の掲示板に上の言葉を書きました。

これを見てどう思われますか。どう思ってもかまわないと思います。

ただ私はこれを葬儀の時に思いました。本当に次かどうかということよりも次が自分の番であっても決しておかしくないのです。

その覚悟をもって生きているか、私たちは常に問われているのです。

 「一ぺん一ぺんが 初ごとのおわり」

今回も小山貞子さんの言葉を書きました。

「一ぺん一ぺん」はすべてに当てはまることです。

生きることは毎日同じことをしているようで、本当はすべてが一ぺん一ぺんの初めであり、そして終わりです。

そんなの当たり前のことと思う私ですが、それは鈍感な証拠です。

実は驚くべきことなのです。二度とないということを知らないから吞気にしていられるのでないかと思います。二度とない今日を生きている。二度とない自分を生きている。二度とない・・・・すべてが二度とないものばかり。初めての今日。初めての自分、すべてが一ぺんの初ごとであり終わりである。こうやって書いている私自身、わかって書いているつもりですが、実はそれが一番あやしいのです。一番わかってないのだと思います。だから書かずにいられませんでした。

  

 「私の心の病気は 相手を認められない病人である」

掲示板の言葉は、念仏者小山貞子さんの言葉です。

どこまでも相対分別でしかものを見れない私。相対分別とは「私とあなた」。私がいればあなたができる。その私の眼(まなこ)にうつるものは私しかいない。あなたは認められない。そんな私のことを「相手を認められない病人」といわれました。

 しかしこの言葉の発するところ、実はそこは相対分別を超えた無分別の世界であるのでしょう。その無分別智の世界をこの相対分別の現実の中で教えられていく道をお念仏というのでしょう。

 

なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、

ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。     

歎異抄9章

 

 

足が痛くて座れませんのやわ、腰が痛くて歩きにくいんですわ。

と最近挨拶のようにあちらこちらで、聞かれるようになりました。

私も小さい字かだんだん見えにくくなってきて、

とうとう老眼鏡をかけることになりました。

私たちは自分のからだは自分のものであると思って生きています。

足が思うように動かないようになったり、目が見えにくくなったりして初めて自分の思いで自分が動かしているのではなかったんだ、阿弥陀如来様のおはたらきの中で生かされている私であると気づかさせていただくのです。

足腰の痛み、老眼により、この身は必ずお返ししなければいけない日がやってくる、その日が来ても私が私であってよかったと言えるように、教えを聞き続けていくのだぞと、阿弥陀如来様が老いを通して南無阿弥陀仏と教えてくださっているのです。